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全ての教育は、技術と科学を混ぜ合わせたものです。技術である理由は、教員が常に様々な変化の中、それぞれに対して素早い判断や意思決定をしなければならないからです。通常、良い教員は教育に対する情熱を持っており、認識面だけでなく情緒面も重要です。教員は学習者の心情を理解し、学習で何に困っているかを察知し、効果的にコミュニケーションできるような人間関係も重要となることも、往々にしてあるものです。
教育についての科学もあります。これは理論と研究を基盤にしています。しかし実際には数多くの理論があり、それぞれの理論の間には矛盾を感じることもしばしばですが、このような矛盾は本来、知識とは何かについての認識論の違いと、価値感の違いから生じています。そして100年以上にわたって、学生がどのように学んでいるのか、経験主義に基づいた研究や、効果的な教育方法が発表されてきています。これも良いものであれば、明確で強力な理論的基盤から導かれていますが、悪いものになると、単なる順位づけや、誰がうまく学習したかというデータ収集に陥ってしまいがちでした。
研究を基盤とした実践の他にも、教員の教育経験に基づいた優れた実践があります。その多くは研究によって有効性が裏付けられていたり、学習理論から導かれていたりするものですが、常にそうであるとは限りません。その結果、一般的には優れた実践を、その時点で認められている知恵であると捉えることはできますが、ある人が優れた実践であると感じた教育方法が、いつでも他の人の共感を呼ぶわけではありません。講義がその良い例です。セクション3.3で、講義には多くの制約がある強力な証拠を示しますが、それでも自分の専門領域を教えるのに最適な方法は講義であると信じている教員は今でも少なくありません。
しかし非常によく訓練された教員でも、うまく学習者とやっていける適性や情緒的なつながりを築くことができなければ、良い教員になれるわけではありません。また、事実上、大学教員のほぼ全てを含むことになるはずの特別な訓練を受けていない教員や、ほとんど経験がないという場合でも、コツをつかんでいる、あるいは生まれつきの才能がある教員であれば、教え方が上手いということもあるでしょう。このような教員の存在はしばしば、教育においては科学よりも技術の方が重要である証拠として引き合いに出されることがありますが、実際にはそんな教員はごくわずかです。訓練を受けることなく自然に素晴らしい教員になっていく人の多くは、仕事の中での試行錯誤を通じ、必然的偶然の中で急速に指導技術を身につけていくのです。
以上のような理由により、あらゆる状況に合う、たった一つの最も優れた教育方法というものはあり得ません。例えば読み書きや算数を教えるための「現代的方法」と「伝統的方法」を巡る不毛な議論が繰り返されるのはこのためです。たいていの場合、良い教員には道具・方法・状況にあった教え方を収めた武器庫があり、それぞれ使い分けています。また教員たちはどのように教えることが良い教育に繋がるかについて、様々な意見を持っているものですが、知識をどう捉えているか、何が学習の良し悪しを決めるのか、望ましい学習成果として何を優先しているのかによって変わってくるでしょう。
それにもかかわらず、このような見かけ上の違いがあるために、教育の質を向上させるための運用基準や手法を作ることができないだとか、教育をめぐる判断の基礎となるべき原則や証拠が存在しないとかいうことを意味するわけではありません。それは、急速に変化するデジタル時代であっても同様です。本書の目的は、そのような運用基準を提供することにあります。もちろん、サイズが1つだけでは誰にでも合うわけではないことは分かっており、教員それぞれが、本書で提案するものの中から自身の教育上の文脈にあわせて選択し、適応させていくことが必要でしょう。しかし、このようなアプローチが機能するためには、教育と学習をめぐる根本的な問題を探求しなければなりません。そのような問題の中には、教育をめぐる普段の議論ではあまり取り上げられないものもあります。最初に取り上げるのは、おそらく最も重要な問題である認識論です。
アクティビティー2.1: 良い教員になるために何が必要だと考えますか
良い教員として最も重要な特徴とあなたが考えるものを3つ、優先度の高い順に書いてみましょう。