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教室での教育形態のうち最も伝統的なものの1つは講義です。

3.3.1 定義

[講義とは] 聞き手に何かを学んでもらいたい話し手による説明であり、ほとんど途切れることがないものである。

Bligh, 2000

この具体的な定義が重要です。つまり講義とは教員と学生との間で行われる質疑やディスカッションで意図的に中断されるという状況を考慮していないからです。教員と学生の間や、学生の間で相互にやり取りを行う形態の講義については、次のセクション3.4で論じることにします。

3.3.2 講義の起源

伝達型の講義の由来は、古代ギリシャ・ローマ時代に遡ることができます。少なくともヨーロッパの大学の歴史が始まった13世紀にあるといって間違いないでしょう。「講義」(lecture) という言葉はラテン語に由来しますが、もともとは読書という意味です。13世紀の頃には、綴じられた本は非常に稀少なものでした。ローマ帝国が崩壊した後の暗黒時代に、ヨーロッパでは多くの文書が破壊されてしまっていました。そのため、たいていは古代ギリシャ・ローマ時代の大変に貴重な巻物の断片や選集を典拠として入念に手作業で作られ、修道僧によって挿絵をつけられたものか、アラビア語圏の原典から翻訳したものを本にしていました。結果、大学はそれぞれの本を1冊しか保有していないのが普通であり、その本は世界で唯一のものであったかもしれないのでした。このため図書館とその蔵書は、大学の評判を決める極めて重要なものだったのです。教授たちは図書館から、その唯一の本を借り出して、文字通り学生たちに読み聞かせなければなりませんでした。学生たちは教授が読み聞かせたものを忠実に書き留めていたのです。

講義という形態自体は、学びの口頭伝承として、他と比べてもはるかに長い歴史があります。つまり知識が世代から世代へと、口伝えによって引き継がれていくのです。このような文脈では「認められた」知識が首尾よく伝達されるために、正確さや権威(あるいは知識へのアクセスを統制する権力)が重要となります。したがって、 伝達される情報が正しいものであると証明するためには、正確に記憶すること、反復すること、権威ある原典を引用することが重要だったわけです。古代ギリシャの英雄伝説、後の時代ではバイキングの英雄伝説が、知識を口頭伝承によって保つ力を示す例と言えるでしょう。そして今でも多くの種族の地域社会における神話や伝説では、このような口頭伝承が続けられています。

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図3.1.1 中世の講義
画家: Laurentius de Voltolina;Liber ethicorum des Henricus de Alemannia; Kupferstichkabinett SMPK, Berlin/Staatliche Museen Preussiischer Kulturbesitz, Min. 1233

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上に示す13世紀の本からの挿絵は、1233年、イタリアのボローニャで、ドイツのハインリヒ7世が大学生に講義を行なっている様子です。驚くべきことは状況が今日の講義とかなり似通っているということです。学生はメモをとっています。後ろで話をしている者もいます。1人は明らかに眠っています。もし仮にリップ・ヴァン・ウィンクル(訳注:「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句、日本で言う「浦島太郎」のようなもの)が800年の眠りの後に現代の講堂で目を覚ましたとしたら、自分がどこにいて、何が行われているかを正確に理解できることは間違いないでしょう。

講義という形態には、長きにわたって疑問が呈されてきました。サミュエル・ジョンソン (1709-1784) は200年以上も前に講義についてこのように述べています。

人々は今では(中略)全てが講義によって教えられるべきであるという奇妙な考えを持つようになってしまった。だが、私には講義というものについて、その講義の元になっている本を読み聞かせることと同等の効果があるとは思えない(中略)講義はかつては役に立つものであったのだが、現在では、誰しもが読むことができ、本も多くあるのだから、講義は必要ないのだ。

Boswell, 1791

注目すべきなのは、印刷機、ラジオ、テレビ、インターネットが発明された後でさえも、伝達型の講義は、権威のある教員が学生の集団に向かって話すという特徴を持っており、多くの学校における教授法の中で主要なものとしてあり続けていることです。クリックするだけで情報が得られるデジタル時代においてさえもなのです。これほどまでに長く続いているものには何か意味があるに違いない、ということは言えるかもしれませんが、しかし近年起こった変化の全て、とりわけデジタル時代に必要となった知識や技能を鑑みると、伝達型の講義が教授法として最も適切なものかどうかについては考え直す必要があるでしょう。

3.3.3 講義の効果について研究が教えてくれること

サミュエル・ジョンソンの意見をどのように捉えるにしても、実際、講義の効果については非常に多くの研究が行われてきました。それは1960年代に遡り、現在も続いています。講義の効果の研究を分析したもので最も信頼できるものとしては Bligh (2000) があります。Bligh (2000) では、講義と他の教授法の効果を比較した様々な研究やメタ分析を要約し、以下のような結果が一貫して得られているとしています。

  • 講義は情報伝達するための他の方法と同等に効果がある。当然の帰結として、動画、読書、独学、Wikipedia のような他の方法も、講義と全く同等に効果的であると言える。
  • 思考を促すことに関して、ほとんどの講義形態はディスカッションほど効果的ではない。
  • 講義は学習者の態度や価値観を変えたり、ある題材への興味を喚起したりすることには概して効果的ではない。
  • 講義は行動に関するスキルを教えることについては、他と比べて効果的ではない。

Bligh (2000) は学生の注意、記憶、動機付けに関する研究も検討し、次のように結論しています。(p.56)

このことからも、少なくとも単調にならないように変化をつけて興味喚起することがないのであれば、講義は20〜30分以内に収める方が良いと考えるべき(中略)証拠があることが分かるだろう。

このような研究が示してきたのは、情報を理解、分析、応用し、長期記憶に留めておくためには、学習者は積極的に教材に取り組まなくてはならないということです。講義が効果的であるためには、学習者が情報を知能的に操作する活動を伴っていなくてはなりません。もちろん講義を行う教員の多くは、このようなことを講義中に立ち止まってコメントや質問を求めたりすることで行うのですが、そうではない教員も多いのです。

繰り返しになりますが、上述のような知見が長きにわたって得られており、現在では YouTube の映像が8分ほど、TED talks であれば最大でも20分であるにも関わらず、 多くの教育機関での講義は今でも標準で50分か、それ以上のものを中心として編成されています。運が良ければ学生が質問したり議論したりする時間が最後に数分ある、という状況なのです。

研究からは次の2つの点を結論づけることができます。

  • 講義が効果的であると考えられる唯一の目的であったとしても、情報伝達のために50分間の講義を行うのであれば、内容は十分に整理されている必要がある。併せて学生の質問やディスカッションの機会を頻繁に設けなくてはならない。(これらを行う方法については、Bligh が素晴らしい提案をしている。)
  • その他、全ての重要な学習活動、例えばデジタル時代に必要とされるスキルである批判的思考力、深い理解、知識を応用する力を伸ばすことについては、講義は効果的ではない。ディスカッションや学生の活動を伴うような他の形態の教育・学習が必要である。

3.3.4 新しいテクノロジーによって講義の重要性は高まるか

長年にわたって教育機関は講義を助けるためのテクノロジーを追加することに莫大な投資をしてきました。 パワーポイント、複数のプロジェクタとスクリーン、学生の反応を記録するためのクリッカーや、ツイッター上で 「物言いをつける」ためのチャンネルを作り、学生が講義について(実際のところ多くの場合は教員についての)コメントをリアルタイムでできるようにすることさえも試してきました。(これは講義する側にとって、あまり気持ちの良くない形であり、苦痛の種になるのは間違いないのですが。)学生は授業にタブレットやノートパソコンを持ってくるように指示され、特に大学では最新の設備を備えた講義教室に莫大なお金が投資されています。しかしこのようなことは全て、表面的な取り繕いに過ぎません。講義の本質が情報伝達であることに変わりはないのです。そして現在においては、伝達される情報の全てが難なく入手でき、他のメディアや、もっと学習者に利用しやすい形で無料で利用できるのです。

私がある大学で仕事をした時、全ての学生がノートパソコンを持参しなければいけない授業がありました。そして少なくとも授業中に、講義と関連する活動で学生がノートパソコンを利用する時間がありました。しかし大多数の授業では、この活動に授業時間の25%以下の時間しか使われていませんでした。残りの時間のほとんどは学生が教員からの話を聞くだけになってしまい、ノートパソコンは勉強とは関係ない、特にオンライン・ゲームのポーカーで遊ぶといったような他の目的で使われる結果となったのです。

教員はしばしば学生たちが「授業とは無関係なことを同時に行なっている」という理由で、携帯電話やタブレットのようなテクノロジーの利用に対して不満を述べているのですが、これは論点がずれています。もし携帯電話やノートパソコンを持っている学生がほとんどだとしても、それでも講義教室に実際にやって来るのはなぜなのでしょうか。ポッドキャストや動画の形でその講義は提供できないのでしょうか。また、学生が講義を聞きに来るとして、なぜ教員は資料を見つけるというような目的で、携帯電話、タブレット、ノートパソコンを学生に使わせるようにしないのでしょうか。学生を小さなグループに分けて、オンラインで調べてグループとしての答えを出させ、クラスで共有するといった活動を行わないのはなぜなのでしょうか。講義を行うことになっているのなら、講義自体を興味深いものに変えることを目指すべきです。そうすれば学生は授業と無関係なオンラインの活動で注意をそらすこともありません。

3.3.5 デジタル時代に講義の役割はないのか

それでも講義という形態にはまだ使い道があります。一例として、私は新任の研究教授の就任記念の講演に出席しました。この講演は教授が行なった共同研究に関するものであり、数種類の癌や他の病気の治療法につながったものを総括するという内容でした。これは一般向けの講演でしたから、当該分野の一流の研究者だけでなく科学についての背景知識がない一般の人々も満足させる必要がありました。教授は非常に良くできた視覚資料と例え話を交えながら講演を行いました。講演の後に懇親会があり、ちょっとしたワインとチーズが来聴者に用意されていました。

この講演がうまくいったのにはいくつかの理由がありました。

  • 家族、同僚、友人が集まる祝賀行事であったこと。
  • およそ20年にわたる研究を1つの首尾一貫した物語にまとめる機会であったこと。
  • 画像や動画が適切に使われ、講義の理解を十分に助けていたこと。
  • 教授はどのような人が聴きに来るか考えながら、1回分の講義よりもはるかに多くの準備を行なって講演に臨んでいたこと。

McKeachie and Svinicki (2006, p.58) は講義は次のような目的に最も適していると考えています。

  • 1つの資料では見つけられない最新の情報を提供する。
  • 様々な資料にある情報を要約する。
  • 素材をある特定の集団の興味関心に合わせる。
  • 重要な概念、原理、考えについての理解について、学習者を初めて手助けする。
  • 専門家の考え方のモデルを示す。

重要なのは最後の点です。よく主張されるのは、講義の本当の価値とは、教授が専門家として、あるトピックや問題にどのようにアプローチしているかの1つのモデルを学生に示すことであるということです。したがって講義で重要なことは学生が読書するだけでも得られる内容(事実、原理、考え)の伝達ではなく、講義で扱うトピックについての専門家としての考え方だというのです。ただし、このような議論を支持する主張には以下の3つの問題点があります。

  • 講義の目的が専門家の考え方を示すことにあるということに学生が気づくことはまれである。そのため学生はむしろ内容を暗記することに力点を置いてしまう。
  • 教員自身もどのように専門家としての考え方を行なっているか明示的に示していない 。あるいはその思考法が利用できる他の場面を教えていないので、学生は比較対照することができない。
  • たとえ学生がそれが専門家の考え方だということに気づいていたとしても、このスキルを学生自身が使う場面がない。

ひょっとするとデジタル時代においては、上述の McKeachie and Svinicki の提案にあるような活動は、講義をする教員の側ではなく、学生の側で行う方がはるかに重要なのかもしれません。

もちろん講義が非常にうまく機能する場合もあるでしょう。しかしデジタル時代においては、通常、授業の標準モデルは講義であると考えることはできないのではないでしょうか。より良い学習につながる、もっと効果的な多様な方法を教育課程の中で見つけることができるはずです。

3.3.6 なぜ講義は教育における主要な配信方法であり続けているのか

ここまでの話を考慮すると、21世紀に入っても講義という形態がしぶとく残っていることについて、何らかの説明が必要ということになるでしょう。そのうちのいくつかを列挙してみましょう。

  • 実際、教育の多くの領域、とりわけ小学校では、講義形式は別の形に置き換えられている。
  • 建築的惰性:教育機関は講義モデルを支援する設備に莫大な投資をしている。もし講義が行われなくなったら、その設備はどうなるのか。(ウィンストン・チャーチルはこう言った。「私たちが自らの建物を形作り、その建物が私たち自身を形作る。」)
  • 北米では1単位につき週1時間の教室授業を13週にわたって続けるというカーネギー・ユニットによる教育がある。したがって3単位のコースであれば、1時間の講義を39回分に分けて、その中でカリキュラムの内容を教えることになる。これを基準として教員が担当する授業時間や必要な教材が決められている。
  • 中等後教育の教員は講義以外の教授法モデルを知らず、それに慣れてしまっている。任用は教育能力ではなく研究歴や職歴に基づいているため、学生がどのように学習するかについての知識のみならず、他の教授法についての経験や自信がない。
  • 多くの専門家は教育や学習において、口頭での伝達を好む。それが専門家として、知識の源として、自身の地位を高めてくれるからである。ほとんど遮られることなく、他人が1時間、自分の考えに耳を傾けてくれるということは、個人レベルでも大きな満足感を与えてくれるものである。(少なくとも著者の私は講義をしている時にそう感じる。)
  • 本章最初のシナリオCを参照のこと。

3.3.7 デジタル時代において講義には未来はあるか

この問いの答えはどれくらい先の未来を見越しているかによるでしょう。システムはなかなか変わらないということを考慮すると、講義はあと10年はまだ優位であるだろうと思われます。その後は、ほとんどの教育機関で1週あたり3回の講義を13週にわたって行うという授業は姿を消すのではないでしょうか。その理由はいくつかあります。

  • 全ての内容は簡単にデジタル化することができ、非常に低コストで利用可能にできる。(第10章参照)
  • 教育機関が、デモンストレーション、シミュレーション、アニメーションなどで、画面に登場する話し手ではなく、より機能的な動画を使うようになる。 こうして多くのコンテンツのモジュールはマルチメディアになる。
  • マルチメディア的な要素や学生のための活動が組み込まれた無料の教科書が、講義の根拠となる内容、構成、解釈を提供してくれる。
  • 最後に、これは最も大切なことであるが、授業において優先されることが情報伝達や整理することから、熟達した専門家の監督のもとで学生が知識を発見、分析、評価、共有、活用する責任を負うという知識管理へと変化する。つまりプロジェクト学習、協同学習、状況的・経験的学習がますます普及することになる。そして多くの教員が講義のために使っていた時間を、より直接的な、個別およびグループの学習者への支援を行うために使うようになる。そうすることで教員は、学習者とより緊密に接することができるようになる。

このことで講義が完全に失われてしまうというわけではありません。講義は特別な目的で行われるものとなり、おそらくマルチメディアを使って同期的あるいは非同期的に行われるようになるでしょう。 特別な目的とは次のようなものです。

  • 教授による自身の研究の要約
  • コースのイントロダクション
  • コースの途中までのところでの中間評価や、学生に共通する困難な点に対応する
  • コース終了時の総括

講義は教員が自分のことを学生に知ってもらったり、自身の興味や熱意を伝えたり、学生を動機づけたりする機会を与えてくれます。このようなことは学生にとって、多様な学習経験を構成する、比較的小さな要素の1つにすぎないのですが、それでも重要な要素なのです。

講義の役割と未来について、詳細な情報を踏まえた別の見方については Christine Gross-Loh, 2016 を参照してください。

アクティビティー3.3 講義の未来

  1. 講義は役割を既に終えていると思いますか。あるいはすぐにそうなると思いますか。
  2. 第1章で述べたデジタル時代に求められるスキルを見てください。このうち教員が講義することによって伸ばすことができそうなものはどれでしょうか。そのために講義の形態は再設計あるいは変更する必要はありますか。もしそうだとすれば、どのようにすれば良いですか。

参考文献

Bates, A. (1985) Broadcasting in Education: An Evaluation London: Constables

Bligh, D. (2000) What’s the Use of Lectures? San Francisco: Jossey-Bass

Boswell, J. (1791), The Life of Samuel Johnson, New York: Penguin Classics (edited by Hibbert, C., 1986)

Gross-Loh, C. (2016) Should colleges really eliminate the college lecture? The Atlantic, 14 July

McKeachie, W. and Svinicki, M. (2006) McKeachie’s Teaching Tips: Strategies, Research and Theory for College and University Teachers Boston/New York: Houghton Mifflin

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デジタル時代の教育 by Anthony William (Tony) Bates is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial 4.0 International License, except where otherwise noted.

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